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SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

サケの増殖事业
千歳ふ化场の建设
伊藤一隆が、北海道に千歳中央孵化場をつくったことで、わが国のサケマスふ化放流事業が本格的にスタートしたのです。
明治21年(1888年)、わが国のふ化事業のスタートとなった千歳ふ化场の建设は、伊藤一隆(いとうかずたか)の米国視察から生まれました。
伊藤一隆は札幌農学校の一期生で、「青年よ、大志をいだけ」のクラーク博士(William S.Clark)に直接、学んだ一人でした。卒業後、開拓使御用掛となり、明治19年、北海道庁が出来たときに水産課長になった人です。
伊藤の訪米は明治19年8月から翌年10月まで、滞米約1年に及びました。この間、渔业事情一般を調査し、サケマスのふ化法について大きな感銘を受け、実際にその方法を学んで帰国しました。
伊藤は访米早々の10月にはメイン州バックスポートのふ化场を中心に、採卵、运搬、ふ化の実施について教示を受けています。そしてここの场长が、あのアトキンス式ふ化器を考案したアトキンス(颁.骋.础迟办颈苍蝉)でした。アトキンスは1871年以来、サケのふ化法をはじめた人で、ふ化技术についての第一人者でした。

水产课长时代の伊藤一隆(后列右)と藤村信吉(前列左)
=明治22年(「鼻まがりサケ谈义」木村义一着より)

うゐりやむそん氏孵化器:北海道鮭鱒人工孵化事业报告(明治27年)
提供:水产総合研究センター



あときん氏孵化器(アトキンス式ふ化器):北海道鮭鱒人工孵化事业报告(明治27年)
提供:水产総合研究センター

伊藤が米国で得た知识は、初代の北海道庁水产课长として遗憾なく発挥されました。千歳の设立を轴とするふ化事业の普及はその最も大きな功绩ですが、その意図はあらゆる意味で千歳を中心としようとするところでした。

ふ化事業には多額の経費が必要であり、技術もなければなりません。民間で行うとしても実効をあげるまでには容易ではありません。そこで考えたのが千歳を中央ふ化場として一大センター化し、それを官営で設立し、発眼卵(卵膜を通して眼の所在が明らかになった卵)にした後、道内の各河川に設けた簡易ふ化場に配送分配するという構想でした。ふ化まじかの卵であれば扱いも簡単で、これを各河川の渔业者にゆだね、後には沿岸漁民に負担金を出させ、これに応じて卵の配分をおこなうという考えでした。

また、大変な僻地(へきち)である千歳川上流にふ化场を求めたのには理由がありました。
便のいい札幌周辺では伊藤の构想する涌水量の河川がなく、豊富な涌水を求めて踏査(とうさ)の结果、得られた场所が千歳川上流でした。元来千歳川は有数のサケの遡上する川で、ずっと 种川制を行っていた好适地でした。


千歳に建てられた最初のふ化室。昭和46年まで使われた
提供:水产総合研究センター


明治期の千歳ふ化场。秋にはこの川でサケの大群が自然产卵をしていた。产卵床の条件は今も変わっていない
提供:水产総合研究センター

明治21年、伊藤は涌水の発见后、直ちにふ化场の设计にかかり、12月にはふ化场を建てます。ふ化器はもちろんアトキンス式であり、ふ化施设はバックスポートのふ化场にならってつくられました。まず、亲鱼を捕获し、约300万粒を採卵。翌年2月には伊藤の构想に従って日高沿岸の6河川に卵を送り込みました。

また、明治22年にはさらに一栋のふ化室を増设し、2000万粒规模の一大ふ化场となりました。このようにしてふ化事业の体制を整え、北海道に拡がってゆく民営ふ化场を育成、教育していきますが、伊藤は明治25年、道庁を辞职します。その后、伊藤の意思をついだのが藤村信吉(ふじむらしんきち)でした。


千歳鮭鱒人工孵化场之図:北海道鮭鱒人工孵化事业报告(明治33年)
提供:水产総合研究センター

伊藤一隆の退官後、伊藤の意思をついだのが、札幌農学校の8期生の藤村信吉でした。

明治期の卵管理の様子(千歳第一孵化室)提供:水产総合研究センター

藤村信吉は札幌农学校の8期生。明治21年に千歳ふ化场に赴任してきます。藤村は伊藤がアメリカで学んだ知识をよく理解し、伊藤の指示のもとで大活跃しますが、支えとなっていた伊藤が明治25年に退官した后、ふ化事业の负担を一身に受けます。多额の経费をかけたふ化事业は必ず実効をあげるものにしなければならなかったからです。
千歳ふ化场は、明治22年の春には140万尾を放流して以来、毎年放流を増し、25年の春には700万尾を放流するまでになりました。

この明治25年という年は、4年前に放流したサケが回帰する年で、実証が得られる年でした。藤村をはじめ関係者は今か今かと、サケを待っていましたが11月になっても一向にサケの遡上が见られず、皆、大きな不安を抱いていました。しかし、12月になって、突如、信じられないようなサケの鱼群が押し寄せてきたのです。
藤村が当时「千歳通信」に书いた记述をご绍介します。
「六日夜半、捕获场に当り炉火(ろか)遽(きゅう)に煌(かがや)かに土人の往来颇(すこぶ)る喧騒なり。忽(たちま)ちにして网を扬(あ)ぐる声の勇ましく闻こゆるは、以って鱼の泝(さかのぼ)り来れる状を知るべく、かかりし数の伙(おびただ)しいさと察すべし」そして、「鱼の泝上(そじょう)はこの日を以って肇(はじめ)とし、尾鼻相连なりて来ること昼夜を差别せず。十日に至りてふ化场前面の河身は殆ど鱼を以て充満するに至れり」
この事は関係者に强い自信を持たせることとなり、ふ化事业に対する评価は水产界へ浸透していきました。そして、ふ化事业は急速に北海道全域に広がりました。
インディアン水車は、伊藤一隆がアメリカから持ってきた詳細な設計図を元にして明治29年に設置されました。
捕鱼车の仕组みを示した図:北海道鮭鱒人工孵化事业报告(明治33年)
提供:水产総合研究センター

千歳川にある有名なインディアン水车は、遡上するサケを水车式の回転ですくいあげ、捕获するものですが、これはアメリカで贵颈蝉丑 奥丑别别濒と呼ばれているものでした。

伊藤一隆がアメリカから持ってきた详细な设计図を元に作られ、日本语では捕鱼车(ほぎょしゃ)と訳されていましたが、一般的にわかりいい「インディアン水车」という呼称でよく知られるようになりました。


インディアン水車 提供:水产総合研究センター

インディアン水車でサケを捕獲 提供:水产総合研究センター

しかし、アメリカでは実际のところインディアンが使用していたものではなく、渔获効率を上げるための贵颈蝉丑 奥丑别别濒はアメリカ人が考案し、操业していたものと考えられています。

いまでもアラスカのユーコン川下流、フェアバンクス付近のタナナ川で见ることができるそうです。

【参考文献】
「鮭の文化誌」秋庭鉄之着 北海道新闻社 1988年2月22日発行
「北海道のサケ」秋庭鉄之着 北海道开発问题研究调査会 昭和55年5月15日発行
「サケ―つくる渔业への挑戦」佐藤重勝著 岩波新書 1986年12月19日発行
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