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サケの増殖事业
サケの天然繁殖法
サケの天然繁殖法「種川(たねがわ)の制」は、江戸時代、青砥武平治(あおとぶへいじ)の創意工夫ではじめられました
世界に誇れる日本独自のサケの天然繁殖法―「種川(たねがわ)の制」

わが国において、サケマスの増殖法が见出されたのは、江戸时代。
村上藩(现在の新潟県村上市)の叁面川(みおもてがわ)において、サケの天然繁殖法「种川(たねがわ)の制」が行われたのが最初です。
「种川の制」とは、サケが子を产卵する川の瀬に、适所を选んで栅(さく)を作り、サケを囲い込み、产卵させ、春3月になってサケの子が川を下る季节に川渔を一切禁じる、という方法でした。この当时すでに、サケが生まれた川に戻ってくるという习性は知られていたことになります。

この「种川の制」は、サケの増殖を研究していた下级武士?青砥武平治(あおとぶへいじ)の建议によるもので、その案が村上藩に受け入れられ、1762年(宝暦12年)から実施に移されました。その后、「种川の制」によりサケは次第に増え、豊渔がつづき、1767年(明和4年)には运上金が约40両になり、また1796年(寛政8年)には运上金が1000両を超すようになり、小藩として豊かでなかった村上藩では、叁面川でとれる村上鮭(むらかみさけ)を藩政上、たいへん重要视しました。青砥武平治(あおとぶへいじ)の工夫が藩の财政をおおいに润したのです。

庄内藩(山形県)では、叁面川の「种川の制」を范として、1806年(文化3年)、月光川(がっこうがわ)を种川としてサケの天然产卵を図っています。


青砥武平冶像(新潟県村上市):イヨボヤ会馆提供
叁面川の种川制度(サケを天然产卵させる仕组み)

さて、叁面川(みおもてがわ)の种川制度は明治になってからも続けられ、一般にも広く认识されることになりました。
明治になりますと、江戸时代の権利を取得した「村上鮭产育所」が叁面川(みおもてがわ)に设立(1882年:明治15年)され、サケ増殖策に大成功をおさめました。

その後、「村上鮭産育所」はサケで得た資金でさまざまな事業を行いました。そのなかでも、最も有名なのは、教育へのてこ入れと奨学資金の設立でした。この奨学金を受けた人たちは「鮭の子(さけのこ)」と呼ばれました。「鮭の子」は、偉人になった優秀な人が多く、数人を紹介しますと日露戦争?乃木大将の通訳の川上俊彦(かわかみとしつね?元日魯渔业社長)、日本最初の工学博士の近藤虎五郎(こんどうとらごろう)、衆議院議員?新潟市弁護士会会長の鳥居鍗次郎(とりいていじろう)、秩父宮?高松宮両殿下の教育係の三好愛吉(みよしあいきち)、高知県知事?樺太長官を歴任した永井金次郎(ながいきんじろう)、陸軍大臣の期待もあった軍人?大竹沢治(おおたけさわじ)、「朝鮮史」全35巻を編さんした稲葉岩吉(いなばいわきち)、広島文理科大学(現広島大学)教授で講義中に原爆で死亡した岩付寅之助(いわつきとらのすけ)、キスカ島無血撤退を成功させた第七歩兵師団長?峯木十一郎(みねぎといちろう)などです。「サケの子」たちは、激動の明治?大正?昭和の日本に大いに貢献した人々に成長しました。
現在の三面川の種川(空撮):村上地域振興局 地域整備部提供
明治になって、村上?三面川の「種川制」は、北海道へ伝わり、多くの河川で採用されました。
明治になって、村上?三面川の「種川制」は、北海道へ伝わり、多くの河川で採用されました。
函館地方の種川制について
とくに函馆の近郊、游楽部川(ゆうらっぷがわ)では「鮭鱼种育场」と称して种川制がおこなわれ、毎年3000尾ぐらいだった遡上サケが、明治16年には8000尾を超え、収益もかなり上がりました。
この游楽部川(ゆうらっぷがわ)での実绩から、函馆地方の河川は、ほとんどが种川制を採用することになりました。当时、外国から移入した人工ふ化法は、なかなか困难で実绩が上がらなかったことから、人工ふ化法より种川制をとることが多かったのです。
札幌地方の種川制について
札幌には开拓使の本府あり、とくに石狩川水系では1879年(明治12年)に人工ふ化の试験が终了し、事业化がむつかしいとなったため、积极的な种川制がとられています。1882年(明治15年)からこの石狩川水系では「种川」として看守人を置き、サケの遡上の鱼道を开けさせるよう指导しています。この种川制は函馆近郊の游楽部川(ゆうらっぷがわ)よりは遅れますが、1888年(明治21年)の千歳ふ化场开设までには豊平川(とよひらがわ)、千歳川(ちとせがわ)、堀株川(ほりかっぷがわ)など12の河川が种川として定めらました。札幌地方ではこの「种川」を「蕃殖场(はんしょくじょう)」と呼んでいました。
资料:
明治18年顷の人工ふ化法に対する批判的な意见(水产谈话会记事?函馆県)


「思うに该鱼の曽て栖息せざる地方に蕃殖(はんしょく)せしむるには人工のふ化法も便ならん。然れども此法に就ては水质の如何より水の温度虫害の防御(ぼうぎょ)等种々の困难あるものにして必ず一挙に好结果を得んと断言すること能わざるものとなれば、我地方に就ては人工のふ化は暂(しばら)くおき、种育场を设け、鱼をして天然に任せ、十分の保护をなすの外策なかるべし」
【参考文献】
「鮭の文化誌」秋庭鉄之着 北海道新闻社 1988年2月22日発行
「叁面川の鮭」横川健着 朝日新闻社 2005年2月28日発行
「サケ―つくる渔业への挑戦」佐藤重勝著 岩波新書 1986年12月19日発行
「标津のサケ」远藤纪忠着 北日本海洋センター平成18年10月25日発行
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