暗网解密

SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

荒俣宏の「超博物誌」第1回特捜

正月とサケの深いかかわり

日魯漁業カムチャッカの工場での塩切り場の様子(昭和初期)もうすぐ歳暮の季节がやってきて、新年の準备がはじまる。かつては、歳暮に赠る品物の定番だったのが「新巻きサケ」だった。东京では「塩ジャケ」と言うと威势がいい。ニチロ(现マルハニチロホールディングス)はその昔、サケマス船団を北の海に出し、サケ缶詰をはじめたくさんのサケ製品を生产して、「サケの王者、日鲁渔业」として知られた。年末になると、社员に一本ずつ大きな塩ジャケが配られたこともある。これをかついで帰りの电车に乗るのは勇気が必要だったが、お正月のご驰走なので喜んで持ち帰ったことがなつかしい!!

新巻鮭の販売促進用ポスター(昭和初期)でも、なぜ歳暮にサケが赠られるのだろう。じつは1000年以上も前からサケは宫中の行事につかわれ、贵族にも禄のかわりに配られていた。秋になると若狭から越后あたりの川に遡上してくるサケの大群を获って、都に送られた。楚割(そわり)とよばれる塩引きサケにしたものらしい。すると、塩引きにした「塩ジャケ」が年末ごろに都へ着いた。正月に食べるに都合がいい。
昔の人は、サケを「年鱼」と呼んだ。春に生まれて川を下った仔が秋にまた川に帰ってきて产卵し、死んでしまうので、一年の命を繰りかえす鱼と信じられたためだ。古い歳が终り、新しい一年の神をお迎えする供え物としてふさわしかった。江戸时代になり、塩ジャケをわらに巻いて新年用に出荷するようになったが、これを「新巻き」と言った。わらは输送のためのクッションとしてつかわれていた。カツオブシ(すこしやわらかい节)も大阪から江戸へ输送されるときは、わらに巻かれた。ところが、一週间の输送のあいだにかつおぶしに有用カビがつき、なまり节の水分を吸ってアミノ酸などを浓缩し、あのかちんかちんのすばらしい「ほん枯れカツオブシ」が発明されるきっかけになったという话もある。ひょっとすると、わらに巻かれた新巻きサケもいっそう美味さが増したかもしれない。

江戸では、初ジャケはおおいに喜ばれた。初ガツオよりも人気が高く、年末年始のご驰走となった。当时サケの产地を领内に持っていた虾夷の松前藩や越后の村上藩では、将军に献上するため塩引きサケを生产して江戸に送り、喜ばれた。この风习が庶民にもひろまって、歳暮の赠り物「新巻きジャケ」が定着したという。

サケとブリの戦いがあった

新潟県村上の鮭さて、江戸时代の末にはすっかり定着した新巻きジャケには、强力なライバルがいた。「塩ブリ」だ。西日本では、冬にはいって脂が乗った塩ブリが「年鱼」として正月の供え物やご驰走になった。西日本では寒流系のサケが获れないから、どうしても暖流系のブリに人気が集中してしまう。それに、ブリは成长につれフクラギ→ヤズ→ハマチ→メジロ→ブリと名前が変わる出世鱼だから、縁起もいい。お祝い物に最适だった。正月シーズンには「年取り鱼」という名で、関西圏のご驰走になった。サケとブリの戦いは、长野の松本から木曽川筋を境にして势力が二分された。飞騨?美浓はブリの国に属するので、马笼宿で生まれた作家の岛崎藤村も「お年取りの膳」にブリが出たことを楽しそうに书いている。

塩ジャケがんばれ、ブリに负けるな! と言いたいところだが、やがてサケには、ブリにないすばらしい新产业が味方についた。それが増殖?养殖事业なのだ(最近はブリも养殖するけれど)。

サケの増殖にのりだした最初の土地は越后の叁面(みおもて)川下流の村上というところだった。ここはサケの大产地で、平安时代の昔から京の都にサケを献上していたという。江戸时代、村上藩ではこのサケをなんとか増やして财政をうるおせないかと考えるようにななった。そんなとき、村上藩士であった青砥武平治(あおとぶへいじ)が、サケに回帰性があることを発见し、毎年かならず川に戻ってくるサケを保护し、产卵场を确保してやれば、増殖につながるという考えをもった。その考えをまとめたのが、「种川の制」だ。

サケの養殖場种川とは叁面川本流の脇に造る水路のこと。サケがこのバイパスを安全に上り,产卵场所へたどりつく。ここで生まれる稚鱼を取ることを禁じ、海へ帰せば、サケはそれだけ多く帰ってくる。村上藩はこの提案を受け入れた。以后、武平治は30年以上も工事に取り组んだ。工事は武平治の死后に完成し、村上藩はみごとにサケの増殖事业に成功した。幕末には运上金が2000両ちかくもあったという。明治维新后も、士族たちはサケ増殖会社をおこし、昭和20年代まで地元产业を支えた。

いっぽう、养殖事业のほうは、加贺金沢でうまれた関沢明清(せきざわあききよ)がアメリカで学んだマスの养殖技术を日本にひろめるため奔走。大久保利通の引き立てもあって明治22年に设立された水产伝习所(のちの东京水产大学)の初代所长にもなった。ちなみにニチロもサケの养殖事业には早くから着手し、がんばった公司だった。末尾に年表つけたので、どうか见てください。
というわけで、サケは増殖と养殖がおこなわれた鱼のはしりだったといえるのだ。新巻きジャケもやがて全国区の人気をかちえて、どこの家の台所でも见られるポピュラーな食材になっていった。

话かわって、明治初めのこと、日本に油絵という西洋画が移入された际に、この塩ジャケが思いがけない脚光をあびることになるのだけれど、このつづきは次回を待て!!。(つづく)

ニチロ(现マルハニチロホールディングス)の养殖事业(曙光记事より)
昭和46年11月 日鲁养鱼(株)设立 :日鲁渔业(株)100%子会社
北海道河西郡更别村に3,000尘2の池を造成し养殖事业を开始
水产庁さけます孵化场の协力も得て、シロザケ?カラフトマス?サクラマス?ベニザケ?ギンザケ?マスノスケなど各种サケ属の池中生产试験を始める
昭和48年 日鲁渔业(株)研究所(増殖部门)、静冈県富士宫市に1,000尘2の试験池を造成
昭和48年12月 米国ワシントン州よりギンザケの発眼卵100万粒を输入
(北海道に70万粒、富士宫に30万粒)
昭和49年1月 同上、富士宫养鱼池で孵化
昭和50年11月 陆封ギンザケ完熟卵の人工採卵に成功(世界初の陆封养殖に成功=完全养殖のサイクル确立)
昭和51年10月 输入した発眼卵から孵化したギンザケが淡水中で完全に亲鱼に成熟
富士宫、更别両养鱼场で合计200万粒の発眼卵を採取
昭和51年 秋 日鲁、岩手県、宫城県、香川県、爱媛県,北海道の各海水养殖场に15万尾のギンザケの种苗を提供。宫城県志津川地区などでギンザケの养殖が开始される
 (「卵の孵化と稚鱼の供给」が日鲁のギンザケ养殖事业)
昭和52年 香川県鱼连、宫城県志津川町渔协で约10万尾のギンザケの水扬げがある
昭和53年 チリ日鲁渔业(本社サンチャゴ市)设立 :日鲁渔业90%、日鲁工业10%
南米チリにおけるギンザケ养殖事业に乗り出す
(プエルト?アイセン地区に养殖施设を设置し、ギンザケ养殖実験を始める)
昭和54年2月 発眼卵を空输し南米チリでギンザケ养殖事业を始める
昭和57年 养殖银サケ市场に定着。协力渔协より买取のギンザケ贩売1,000トンの大台を突破
昭和61年 养殖キングサーモン贩売开始(発眼卵を孵化、淡水饲育、海面养殖ののち)商业ベースでの成功は今回が始めて
昭和62年 日鲁养殖ギンザケ贩売会议 62年度计画:地域别生产量 叁陆(志津川?岩手他)2,000トン、佐渡165トン、北陆35トン、マスノスケ(佐渡?志津川)35トン
昭和63年7月 岩手県気仙町に気仙町サケマス养殖研究所を开设
バイオテクノロジー応用し、全雌、3倍体などの优良种苗の开発研究を目指す
平成元年9月 日鲁渔业社长佐々木醇叁(当时)が、チリ共和国からベルナルド?オ?ヒギンス勲章を授与された。ギンザケの养殖を通しチリの経済、产业の开発に贡献したことが认められた
平成5年 日本国内での养殖事业を终了
平成8年 チリでの养殖事业を终了


荒俣宏 作家

1947年东京生まれ。庆応大学法学部卒业后、日鲁渔业(现マルハニチロホールディングス)に入社。コンピューター?プログラマーとして约10年间のサラリーマン生活をおくる。その间、纪田顺一郎氏らと、雑誌「幻想と怪奇」を発行。英米の幻想文学などを翻訳しつつ、评论も展开。独立后は翻訳、小説、博物学、神秘学などジャンルを越えた执笔活动を続け、その着书、訳书は300册に及ぶ。代表作に350万部を越える大ベストセラーとなった『帝都物语』(全6巻 角川书店)、古今の生き物に対する博物学の集大成といえる大着『世界大博物図鑑』(全7巻 平凡社)などがある。日本大学芸术学部研究所教授。近着に『読み忘れ叁国志』小学馆、『想像力の地球旅行』角川文库、『イリュストレ大全』长崎出版など。

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