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SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

サケの増殖事业
サケの人工ふ化法
人工ふ化法の歴史
江戸时代に书かれた「北越雪谱」(铃木牧之)描かれたさけ図
日本の人工ふ化のはじまり
文献では1713年に刊行された?和汉叁才図絵(わかんさんさいずえ)?に「1はらには数千の卵があり、卵には1つの红点がある。これを稲わらに包んで水中の暗い処においておくと翌年には沢山の鮭が生まれる」と记载されていることから、当时はこの程度のことはわかっていたと思われます。
また、1840年に刊行された「北越雪谱(ほくえつせっぷ)」には、「筋子と白子をまぜて川の砂石に包んでおけば、たとえ鮭のいない川にやっても3年で鮭がふえる」といった记述があり、サケは人工授精をしてその卵を运搬して移植ができることが记载されていますが、実施したかどうかの事実関係は明らかではありません。
人工ふ化法が世界で最初に行われたのは、1420年頃フランスの修道士ドン?パンション(Don Pinchon)でマスのふ化を水槽で行ったとされていますが、実用化としては1757年にオーストリアの陸軍士官L.ヤコビー(Ludwig Jacobi)が、マス卵を人工授精させ、砂利を使ってのふ化に成功しました。これが人工ふ化法として、きわめて有名な「ヤコビー法」と呼ばれるもので、ヨーロッパでこの手法が広く普及していきます。
日本では関沢明清によって明治10年、サケのふ化放流がはじめられました。

関沢によって日本で最初に発行された、ふ化法の技术教本「养鱼法一覧」
加贺藩士(现石川県)の関沢明清(せきざわあききよ)は、藩から英国留学した秀才でした。明治政府に入った后、1873年(明治6年)ウィーンで开かれた万国博覧会に随员として出张。この博覧会は长く锁国をしていた日本に大きな刺激を与えました。関沢は当时ヨーロッパで盛んに行われていたマスの人工ふ化方法に惊き、さらに1876年(明治9年)の米国フィラデルフィアの万国博覧会で、サケのふ化方法を学び、日本にその技术を伝えました。

関沢は、内务卿大久保利通に、我が国でも积极的に水产业振兴策を讲ずるべきであると进言し、内务省の初代水产掛长に就任、1877年(明治10年)には东京新宿の勧农局所管の农学校校长もかねます。今流にいえば、水产庁长官兼东大农学部长のような立场にあり、また、1888年(明治21年)には水产伝习所(现东京海洋大学)の初代所长に就任しました。
関沢は、サケのふ化放流のほかにも、缶詰製造技术、イワシ改良扬操网、近代的捕鲸技术などを日本の殖产のために积极的に导入しました。
関沢明清によるサケのふ化放流技術の導入

関沢明清(せきざわあききよ)が、ふ化技术を学んだのは米国东海岸ニューイングランドのニューハンプシャー州、チャールスタウンの「コールドスプリング?マス养鱼场」でした。

帰国后、関沢は茨城県那珂郡青柳村の「网地元(あじもと)」菊池亲(きくちちかし)の协力を得て、亲鱼入手の手はずを整え、ふ化后の卵の育成のために养鱼池(ようぎょいけ)を準备しました。养鱼池はほかに、东京内藤新宿勧农局试験场(现新宿御苑)、埼玉県大里郡押切村(江南村)、埼玉県新座郡白子村(现和光市)、神奈川県柚木村(现东京都青梅市)にも设けました。
こうして、翌1877年(明治10年)10月~11月にかけて人工受精を行いました。

採卵(さいらん)は栃木県板室村のマス88尾から採った162,000粒と那珂川の下流青柳村の対岸、常盘村风吕のサケ130尾から採った224,500粒を使用しました。

関沢明清(1843~97年)

【関沢がつくった养鱼池】

?茨城県那珂郡青柳村
?东京内藤新宿勧农局试験场(现新宿御苑)
?埼玉県大里郡押切村(江南村)
?埼玉県新座郡白子村(和光市)
?神奈川県柚木村(现东京都青梅市)

【関沢がサケ稚鱼を放流した河川】

?埼玉県大里郡押切村(江南村)のサケ稚鱼12000尾→那珂川支流の荒川に放流

?东京内藤新宿勧农局试験场(现新宿御苑)のサケ稚魚2500尾→玉川(多摩川)に放流

受精卵は3週间ほどで発眼(卵膜を通して眼の所在が明らかになること)し、输送可能となったところで、マス卵は神奈川県柚木村(现东京都青梅市)の养鱼池へ输送。サケ卵は柚木村、埼玉県大里郡押切村(江南村)、埼玉県新座郡白子村(现和光市)、东京内藤新宿勧农局试験场(现新宿御苑)、神奈川県田名村、爱知県宫田村のほか、アメリカにも10,000粒が送られました。

そして、4月末、埼玉県大里郡押切村(江南村)で育った稚鱼12,000尾を、那珂川支流の荒川に放流し、また东京内藤新宿勧农局试験场(现新宿御苑)で育った稚鱼2,500尾を玉川(现多摩川)に放流しました。

関沢の指导で人工ふ化に成功した菊池亲(きくちちかし)も、那珂川に稚鱼の放流に成功したと伝えられています。

以上が、日本のさけますのふ化放流の最初です。以后、わずか6年の间にふ化事业は日本全国に普及していきました。
北海道のふ化事業は、北海道開拓使が招いたアメリカ人技師トリートからはじまりました。
北海道開拓使(開拓のための行政機関)は、アメリカを範として北海道の開発を進めました。明治3年アメリカの農務長官H.ケプロン(Horace Capron)を開拓使顧問として迎えたり、農業教育では「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士(William S.Clark)を迎えました。明治10年、アメリカから缶詰生産の指導者として向かえたU.S.トリート(Upham Stowers Treat)は、石狩と根室にサケの缶詰工場を建てました。そして開拓使長官?黒田清隆(くろだきよたか)に手紙をおくり、サケの人工ふ化の効用を説きました。

开拓使は、トリートの意见に基づき、明治11年1月、千歳川で2000粒を採卵、ふ化。
また、同年9月、石狩川支流の琴似川(ことにがわ)でとれたマスから採卵し、ふ化。

明治12年に完成したふ化场は、现在の北海道大学の南侧にありました。当时、涌水が流れ、サケマスがのぼった川があり、このあたりの一帯は「偕楽园(かいらくえん)」と呼ばれていました。そのため、このふ化场は、「偕楽园ふ化场」と称していました。
北海道におけるこれらの试験的ふ化事业は4年间続けられますが、ふ化技术がまだ确立していなかったために失败に终わり、しばらく中断を余仪なくされました。当时、北海道ではサケ资源は豊富で、どうしてもサケを増殖しなければならない、という意识や危机感がなかったことが、「ふ化事业の中断」の最も大きな原因といえます。
その后、中断したふ化事业が再开されるのは明治21年。
札幌农学校(现北大)一期生の伊藤一隆(いとうかずたか)によって、また、サケのふ化试験が千歳川上流で始められたのです。
【参考文献】
「鮭の文化誌」秋庭鉄之着 北海道新闻社 1988年2月22日発行
「北海道のサケ」秋庭鉄之着 北海道开発文库 昭和55年5月15日発行
「サケ―つくる渔业への挑戦」佐藤重勝著 岩波新書 1986年12月19日発行
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