暗网解密

SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

近代~现代のサケ渔
北洋サケマス渔业の再開/昭和20年(1945)~昭和63年(1988)
母船式サケマス渔业の再開
信浓丸
第2明晴丸
地洋丸
野岛丸
昭和27年(1952)より母船式サケマス渔业は再開されました。
戦前の母船は3000トン级でしたが、その规模は年々、大型化しました。昭和52年、サケマスの母船は、8000トン级から9000トン级にもなり、この大型化により広い公海を渔场として利用できるようになりました。
「北洋鮭鱒」冈本 信男着 水产週报社 昭和29年12月発行より
母船は巨大な水産加工工場です。
内部には2から3ラインの缶詰製造机械が并び、一日に1万から7万箱のサケ缶詰を製造することができます。また、製氷设备、鱼油搾取?鱼粕製造设备などをもっています。
独航船(母船の周りで流し网でサケをとる船)は戦前平均35トンで木造船が主でしたが、昭和50年ころには96トンの钢鉄船で470马力のエンジンを持ち、最新のレーダー?小鱼群探知机などを装备するようになりました。

绵密に洗浄されるサケ(昭和46年ごろ)

冷冻するために计量される(昭和46年ごろ)
  母船式渔业は資本?漁労技術ともにもっとも進んだ生産部門で、その船団は母船を所有する渔业会社と独航船を所有する渔业者が共同して、政府から許可を得て編成されていました。昭和50年出漁したのは、母船10隻、その所属会社8社、独航船332隻でした。
母船式渔业の漁期は5月15日から8月10日の間です。
5月初旬、船団は水面の広い函馆港に集结し、水产関係者や家族の万歳の声と军舰マーチに送られて、一斉に出向します。北洋への出発风景は毎年罢痴ニュースになり、北海道の春の风物诗にもなりました。
母船式渔业で最も重要な漁獲物は価格の高いベニザケであり、船団は主としてベニザケの好漁場を求めて移動していきます。5月下旬から6月上旬にかけては、カムチャッカ半島東岸で東カムチャッカ系のベニザケを漁獲し、6月上旬から下旬にはアリューシャン列島付近で、アラスカのブリストル湾系のベニザケをとり、6月下旬から7月下旬には再びカムチャッカ半島寄りで、西カムチャッカ系のベニザケを漁獲するのが一般的でした。  
サケはきちんとパンに并べ冷冻され、品质を保持するためにグレーズ(氷衣)がかけられる(昭和46年ごろ)
また、船団は6月下旬から7月中旬にかけて、シロサケ、カラフトマスの群れを追って、ベーリング海のオリュートル岬あたりまで移动します。そして、渔期末にはカムチャッカ半岛东南冲においてギンザケを渔获するのが恒例になっていました。
日ソ渔业条約による厳しい規制の中での操業
昭和49年(1974)北西太平洋のサケマス渔场図
「日本のサケ」市川建夫着 NHKブックス内、大日本水产会资料より

日ソ渔业協定によると、流し網の長さはブルガニーライン内では12キロメートル以下、その他の水域では15キロメートル以下、また綱と綱との間隔はブルガニーライン内では10キロメートル以上、その他の水域では8キロメートル以上と定められています。その規定を守るために操業地域を3500~4300平方カイリのサシガネ型の海区に分割してその区画の中で一船団が操業しています。
独航船は母船から50~80カイリ以内の水域でサケマスをとります。夕方から日没までに投网し、翌朝早くから网を扬げて、渔获物を持ち帰ります。
础区域では「船别ノルマ制」といって船ごとに渔获高を割り当てられます。鱼価はベニザケ、ギンザケ、マスノスケ、シロサケ、カラフトマスの顺になっているため、势い独航船は鱼価の高いベニザケ、ギンザケを优先してとってきました。

*その後、母船式サケマス渔业は、他国からの魚種別、海域別の漁獲規制が年々きびしくなり、また、渔业協力費の増加による負担もおおきくなり、昭和62年、母船式での操業は採算が合わないと見られるようになり、昭和63年の出漁を最後に終焉を迎えました。
引用文献:「日本のサケ」市川健夫着 狈贬碍ブックス昭和52年8月発行
「北洋鮭鱒」冈本 信男着 水产週报社 昭和29年12月発行
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