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SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

馆长のサーモンレポート1 鮭神社を訪ねて

サーモンミュージアムの馆长です。
いまでこそ、日本全国で鮭を食べる习惯がありますが、それができるようになったのはそれほど昔の话ではありません。サケは関东以北(东日本)の河川には遡上しますが、西日本の河川ではその数が少ないため、一般の人々にはサケを食べる习惯がありませんでした。ちなみに正月鱼(歳取り鱼)は东日本ではサケ、西日本ではブリになります。全国に鉄道网や道路网が张り巡らされ、各地に冷冻冷蔵インフラの整备が整っていない时代、サケはなかなか庶民の口にははいりにくい高価な鱼でした。今回は、函馆の旅でわかった鮭にまつわるいくつかの事実を绍介しましょう。

高田屋嘉兵衛からはじまった箱館の発展。

かつて箱馆(明治2年に函馆と改字)はどこにでもある港町に过ぎませんでした。この港を江戸时代に北日本最大の港町として発展させたのが高田屋嘉兵卫(1769~1827)です。彼の话は司马辽太郎の着书「菜の花の冲」に详しいですが、寛政12年(1800)年顷、択捉(えとろふ)岛への航路を开きそこで获れたベニサケを塩引きに加工して箱馆に运び、そこから江戸や上方に运んだ船头であり、商人であり、ロシア军舰に拿捕されながらも、ロシアと対等に接した日本有数の快男児でした。

明治38年、日本は日露戦争に胜利し、明治41年に日露渔业协约が结ばれると、日本人がロシア领土内の渔区を借りてサケマスを获るようになりました。この结果、北洋渔业が盛んになり、とくに日鲁渔业(现マルハニチロホールディングス)をはじめとする日本の渔业会社がロシアで获れたサケマスを加工し、冷冻鮭、塩鮭、缶詰、塩イクラなどの多くの加工品を生产し、国内消费のみならずイギリスをはじめとする海外へ输出しました。

昭和20年(1945年)、太平洋戦争でわが国は败れ、ソ连领土での権益、北方领土の渔业権を失い、北洋サケマス渔业は壊灭的な打撃をうけました。しかし、昭和27年(1952年)讲和条约発効により北洋公海での母船式サケマス渔业が再会され、再び北洋サケマス渔业は最盛期をむかえるようになりました。

また、戦後は冷蔵?冷凍技術や流通網などの急速なインフラの発達により、関西や九州方面をはじめとする日本各地に鮭の食文化が広がり始めました。 当時の北洋サケマス渔业の花形はベニザケで、西日本の人々は「サケ」といえば紅鮭をさすようになっていきました。その美しい赤い身色と独特の旨みに魅了された食通も多かったことでしょう。現在でも紅鮭は西日本の人々の間で高く評価されています。

「北洋さん」ならツケがきく。北洋渔业の最盛期。

母船式サケマス渔业船団は、函館港から5月はじめに出航し、7月末までの3ヶ月間、北洋に出漁しました。

日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)の創業者の一人、平塚常次郎(第一次吉田茂内閣の運輸大臣)は函館の大町出身でした。函館の町をこよなく愛した平塚は、北洋渔业にかかわる物資のすべてを函館で調達するよう号令をかけました。その結果、函館には出漁中に使用する漁業資材、食糧、燃料だけでなく、漁業に関する人も情報も集まりました。7月末に船団が函館に帰港すると、町には漁業従事者「北洋さん」があふれました。無事に帰れた喜びと、多額の報酬を得た喜びから、「北洋さん」たちは非常に羽振りがよく、市内でも大歓迎を受けました。

このようにして函館の町は、北洋サケマス渔业、特に日魯漁業(現マルハニチロホールディングス)とともに発展を遂げてきました。平塚の函館の発展における功績は大きく、現在は市内にある湯の川公園の銅像にその勇姿を偲ぶことができます。
1970年代に入り、200海里渔业水域がアメリカ、カナダ、ソ連(現ロシア)の各国より設定されたため、北洋公海での母船式サケマス渔业も昭和63年(1988年)に終わりを告げました。

 
北洋資料館で近代漁業の歴史を学ぶ。
国の特別史跡で観光名所の五稜郭近くに北洋資料館があります。ここにはかつての北洋渔业にかかわる展示物が並べられ、人々に函館と北洋渔业の歴史を伝えています。9月には特別展「街と歩んだ北洋渔业~ニチロ創業100年」が開催されました。常設展示の「日魯コーナー」では北洋渔业全盛期の賑々しさを感じることができます。展示品の中には函館市民が羨望の眼差しをむけた戦前の日魯漁業社員の制服もありました。この制服を着た社長以下社員が欧米へ当時の主要輸出品ベニザケ缶詰の販売に行った意気込みが偲ばれます。ニチロ(現マルハニチロホールディングス)は北洋渔业の衰退とともに、漁業から食品加工へ事業の中心を変化させて現在に至りますが、そんな歴史を物語る商品パッケージなども展示されていました。

施餓鬼(せがき)法要で「食」の心を知る。

今回の函馆の旅では、ニチロ(现マルハニチロホールディングス)が行う施饿鬼(せがき)法要に参加させていただきました。ニチロ(现マルハニチロホールディングス)ではこの施饿鬼法要を毎年9月、创业者、堤清六の命日にあわせ函馆市船见町にある称名寺(しょうみょうじ)にて行っているそうです。

「饿鬼」とは仏教で言う六道(天上道、修罗道、人间道、畜生道、饿鬼道、地狱道)のうち、现世で徳を积まなかったために饿鬼道に落ちてくるしんでいる亡者のことをいいます。饿鬼道では饿鬼が口にしようとするものは、たちまち燃え尽きてしまい、食べ物も、水さえも、何一つ口にすることができず、飢えの苦しみが际限なく続くといわれています。自分の力ではこの苦しみを脱することができない饿鬼に、食べ物を施そうというのが「施饿鬼会」(せがきえ)です。食べることは动植物など他の命を夺うことです。そんな自分の罪深さを知り食べ物に対する感谢の気持ちを自覚するための供养でもあります。鮭を获ってきた渔业者として、また食品加工メーカーとしてこのような法要を毎年行うことはとても大切であると感じました。いただいた命に感谢し、その魂を供养し冥福を祈る。渔をするものの间で広く行われている供养であると闻きます。私も心をこめて合掌しました。

称名寺の境内には「日鲁従业员精霊塔」がありました。北洋の危険な海で操业中の海难事故で命を落とした人、太平洋戦争に巻き込まれた人。中には北方领土に出稼ぎに出ていて、帰る途中に潜水舰の攻撃や空袭に巻き込まれた若い女性従业员もいたと闻きます。そんな殉职者の魂を镇めるために建てられました。鮭をとりまく史実の中にも戦争の愚かさをあらためて感じました。

未来に繋げていきたい鮭の食文化と心意気。

时代が流れても、日本人が鮭好きな国民であることには変わりありません。その调达方法は変わっても、朝ごはんに焼き鮭は定番ですし、おにぎりの具はなんといっても红鮭です。最近はコンビニエンスストアでイクラやスジコのおにぎりも売られており、鮭好きにはたまりません。

ニチロ(现マルハニチロホールディングス)は创业100周年の记念として従业员に鮭柄の风吕敷を配布したそうです。レジ袋の代わりに「エコバック」として使用してもらおうという思いもあるといいます。なかなか粋なはからいです。
鮭をとりまく过去现在未来について改めて考えることができました。このウェブサイト「サーモンミュージアム」でも更に有意义な情报を楽しく発信していこうと、気持ちを新たにした函馆の旅でした。

函馆市北洋资料馆
函館の重要産業であった北洋渔业に関する資料が一堂に展示。体験的な船のコーナーもあり、厳しい北洋の自然と戦いながら海の産業を成立させた先人達の業績を具体的に知ることができる。

住所:〒040-0001函馆市五稜郭町37番8号
电话番号:0138-55-3455
ファックス番号:0138-55-3586
函馆市北洋资料馆ホームページ:
市立函馆博物馆
市立函馆博物馆の歴史は、明治4年開拓使顧問ホーラス?ケプロンが、北海道の開拓に博物館が必要であると説いたことにより、明治12年(1879)5月25日に開拓使函館支庁仮博物場が開場しその幕を開けました。

住所:〒040-0044 北海道函館市青柳町17-1
电话番号:0138-23-5480
ファックス番号:0138-23-0831
市立函馆博物馆ホームページ:
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