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何事でもそうだが、钓师のあいだでもしょっちゅう、“ツキ”がどうのこうのと议论のタネになる。“ツキ”はあちらの言叶になおせば、“ラック”(幸运)ということになるが、どうなおしてみたところで、どこかにはっきりと“偶然”が颜を覗かせているという事情に変りはない。だから、すごい大物を钓った仲间に“ツイてるなア!”と浴びせるのはよく考えてみると、偶然に钓れたんだなアということになるから、失礼千万なことであるはずだ。しかし一滴一滴がたったいま岩からとりだしたばかりの宝石のような水滴の灿めきを散らしてあばれまわる野生の虹マスなどを见ると、ホメてあげたい気持といっしょにむらむらと素朴かつ深刻な嫉妬が胸さきへつきあげてくるから、それをごまかすためにどうしても口をついてでるのはそういう言叶になる。むしろそういうときは、“これはツキじゃない!”とやるのが相手の腕にたいする最大の賛辞であるはずである。今度からは私もきっとそうすることにしたい。今度からは??? |
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爱用の钓り道具(开高健记念馆提供) |
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戦争に“ストレイ?ビュレット”(流れ弾)というものはない。たとえば南の暑い国で一人の名もない兵士が昼寝から眼がさめてあくびまじりの退屈しのぎに一発、狙いもつけずにブッ放したとする。それがたまたま近くの街道を歩いていたお婆さんにあたって、お婆さんが死んだとする。それは、事故であり、无作為の过失であり、そのときの弾丸は“流れ弾”であるとされ、老婆は运が悪かっただけのことだととされそうである。おそらくそう定义づけるよりいたしかたのないことなのだろう。しかし、一人の名もない若者をそこに送りこみ、昼寝をさせ、銃をよこにおかせたものは戦争である。それがなければ若者はそこにはいなかっただろうし、体のよこに銃をおくということもなかった、そういうそれがあったために一つの汗と皱にまみれた、塩辛くて渋い六十年の生涯が消えたのである。だからこの弾丸は无作為の作為とでも呼ぶしかないのではあるまいか。戦争には迷い弾や流れ弾というものはあり得ないのではあるまいか。 |
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话が大袈裟になって申し訳ないが氷雨でズブ濡れになったのに一日かかって一匹も钓れないということは钓师にはしょっちゅうあることで、そういうときの彼は追いたてられ、追いつめられた弱い獣の怒りと憎しみで头からゆらゆら汤気がたちそうになっている。祖遮れば祖を刺し、师来れば师を杀してでもというところまできているのである。その心にふさわしいような质量のものはないかと探しまわったために戦争と弾丸などという物騒なイメージがひっかかってきたのだった。しかし、现実にはこの流れ弾に似たことが山でも海でもしょっちゅう発生するのである。いよいよ引き扬げぎわになって最后に一発と思ってなげやりにキャストしたルアーがとんでもないところへとんでいってとんでもない大物が食いついたというようなことがよくある。そこで味をしめた钓师は、何やら悟るところがあり、“ツキ”というものは寝て待っていたところでくるものではなく、こちらから攻撃にでてつかまえにかからなければ手に入らないものなんだと知る。まさにそれはそのとおりで、鱼は意思を持った生きものなのだから、いつ、どんなところにいるかという法则に従って行动すると同时に、しばしば、いつ、どんなところにいるか知れたものではないという例外にも従うのである。そうなると、钓师は次回からはタマズメになると、これが最后、これが最后、つぎの一発がビッグ?ラストと思いつめて、とめどなく何発も、それも选りに选っておかしなポイントばかりへキャストするようになり、ルアーは岩にぶつかって钩先が曲り、木にひっかかってからみ、沉木に刺さってとれなくなり、おまけに日がとっぷりと暮れて広い湖だと帰り道がわからなくなる。それでもこりずに钓师は“例外”を追って何ヶ月も、ときには何年も、しぶとく悪运ばかりを追いまわす。 |
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爱用の钓り道具(开高健记念馆提供) |
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多种多様な歳月をかけた経験、そこから分泌されるものと独特の天与から分泌されるものがブレンドされてできるカン、そこへ左派と右派の争闘や女にふられた恨みや食いはずれた御驰走などにひそむのとおなじたぐいの根(こん)のしぶとさ、こうしたものの絶妙なからみあいのなかから“ツキ”という不思议は呼びよせることができる。初心者にかぎってよく钓れるという、あの、“ビギナーズ?ラック”は厳然たる现実であるが、それにたぶらかされてこの道に迷いこんだあなたはその翌日から“ビギナー”ではなくなるので神様はもう目をかけて下さらない。氷雨と黄昏のなかの伟大な愤怒と、何回も、何ヶ月も、何年もたたかっているうちにあなたはまったりと熟(う)れてきて、どこで打ってでるか、どこで撤退すべきかがおぼろげながら体得できる。“ツキ”というものにもしばしば际会し、のべつ逃げられているうちに、何となくその阳炎(かげろう)に似た性质が呑みこめてくる。おしゃべりだったあなたは、悲しいまなざしだけで生きる皱だらけの名傍役のように寡黙になる。おびただしいことは言叶にしようがないということを悟り、定义しようもないそれら风のようなもの、野獣のようなものは、もうとらえようなどと考えなくなる。あるがままにあらしめようという秋の水のような至境に达するのである。これを劔の道で申せば斩人斩马の宫本村の武蔵(たけぞう)から宫本武蔵と名が変わるまでの生であり涯である。そうであるはずのものである。それに逆らって武蔵(たけぞう)の身分である者が武蔵(むさし)の真似をしたらどうなるか。以下にあなたはその実谈としての悲しみよ、今日はを読まれる。あるがままにあらしめよに逆らいたくなって走るままに走ってみたらこうなっちまったのだ。(后略) |
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