暗网解密

SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

第3回「私の钓鱼大全」

17世紀にイギリスのウォルトン卿は「釣魚大全」を書き、動乱と流血のこの時代にも釣師はいかに高潔の心志を保つべきかを考えた。開高さんがロンドンをぶらぶら歩いているとき、ウォルトン卿が晩年、ロンドンで釣具店を開いていたという場所に偶然、行き当たったという。そこに銅版の看板があって、「いまだにその字体と、銅版に射していたおぼろな冬の午後の日光がありありと思いださせるほどである。それは“STUDY TO  BE  QUIET”というのである。『おだやかになることを学べ』というのである」開高さんは釣師としてまだまだこのような心境にはなれないと独白されていますが、開高さんの釣魚のエッセイは、人間の無垢な愉しみや無垢なかわいさ、異国の湖沼の自然観や文明批評にまで論じ、話し、書き、つまりは「人間」とは何かを教えてくれるように思うのです。
開高健著「私の釣魚大全」より

「ツキの構造」より抜粋

開高健著「私の釣魚大全」文芸春秋社 昭和五十六年九月二十五日発行
何事でもそうだが、钓师のあいだでもしょっちゅう、“ツキ”がどうのこうのと议论のタネになる。“ツキ”はあちらの言叶になおせば、“ラック”(幸运)ということになるが、どうなおしてみたところで、どこかにはっきりと“偶然”が颜を覗かせているという事情に変りはない。だから、すごい大物を钓った仲间に“ツイてるなア!”と浴びせるのはよく考えてみると、偶然に钓れたんだなアということになるから、失礼千万なことであるはずだ。しかし一滴一滴がたったいま岩からとりだしたばかりの宝石のような水滴の灿めきを散らしてあばれまわる野生の虹マスなどを见ると、ホメてあげたい気持といっしょにむらむらと素朴かつ深刻な嫉妬が胸さきへつきあげてくるから、それをごまかすためにどうしても口をついてでるのはそういう言叶になる。むしろそういうときは、“これはツキじゃない!”とやるのが相手の腕にたいする最大の賛辞であるはずである。今度からは私もきっとそうすることにしたい。今度からは???
爱用の钓り道具(开高健记念馆提供)
戦争に“ストレイ?ビュレット”(流れ弾)というものはない。たとえば南の暑い国で一人の名もない兵士が昼寝から眼がさめてあくびまじりの退屈しのぎに一発、狙いもつけずにブッ放したとする。それがたまたま近くの街道を歩いていたお婆さんにあたって、お婆さんが死んだとする。それは、事故であり、无作為の过失であり、そのときの弾丸は“流れ弾”であるとされ、老婆は运が悪かっただけのことだととされそうである。おそらくそう定义づけるよりいたしかたのないことなのだろう。しかし、一人の名もない若者をそこに送りこみ、昼寝をさせ、銃をよこにおかせたものは戦争である。それがなければ若者はそこにはいなかっただろうし、体のよこに銃をおくということもなかった、そういうそれがあったために一つの汗と皱にまみれた、塩辛くて渋い六十年の生涯が消えたのである。だからこの弾丸は无作為の作為とでも呼ぶしかないのではあるまいか。戦争には迷い弾や流れ弾というものはあり得ないのではあるまいか。
话が大袈裟になって申し訳ないが氷雨でズブ濡れになったのに一日かかって一匹も钓れないということは钓师にはしょっちゅうあることで、そういうときの彼は追いたてられ、追いつめられた弱い獣の怒りと憎しみで头からゆらゆら汤気がたちそうになっている。祖遮れば祖を刺し、师来れば师を杀してでもというところまできているのである。その心にふさわしいような质量のものはないかと探しまわったために戦争と弾丸などという物騒なイメージがひっかかってきたのだった。しかし、现実にはこの流れ弾に似たことが山でも海でもしょっちゅう発生するのである。いよいよ引き扬げぎわになって最后に一発と思ってなげやりにキャストしたルアーがとんでもないところへとんでいってとんでもない大物が食いついたというようなことがよくある。そこで味をしめた钓师は、何やら悟るところがあり、“ツキ”というものは寝て待っていたところでくるものではなく、こちらから攻撃にでてつかまえにかからなければ手に入らないものなんだと知る。まさにそれはそのとおりで、鱼は意思を持った生きものなのだから、いつ、どんなところにいるかという法则に従って行动すると同时に、しばしば、いつ、どんなところにいるか知れたものではないという例外にも従うのである。そうなると、钓师は次回からはタマズメになると、これが最后、これが最后、つぎの一発がビッグ?ラストと思いつめて、とめどなく何発も、それも选りに选っておかしなポイントばかりへキャストするようになり、ルアーは岩にぶつかって钩先が曲り、木にひっかかってからみ、沉木に刺さってとれなくなり、おまけに日がとっぷりと暮れて広い湖だと帰り道がわからなくなる。それでもこりずに钓师は“例外”を追って何ヶ月も、ときには何年も、しぶとく悪运ばかりを追いまわす。
爱用の钓り道具(开高健记念馆提供)
多种多様な歳月をかけた経験、そこから分泌されるものと独特の天与から分泌されるものがブレンドされてできるカン、そこへ左派と右派の争闘や女にふられた恨みや食いはずれた御驰走などにひそむのとおなじたぐいの根(こん)のしぶとさ、こうしたものの絶妙なからみあいのなかから“ツキ”という不思议は呼びよせることができる。初心者にかぎってよく钓れるという、あの、“ビギナーズ?ラック”は厳然たる现実であるが、それにたぶらかされてこの道に迷いこんだあなたはその翌日から“ビギナー”ではなくなるので神様はもう目をかけて下さらない。氷雨と黄昏のなかの伟大な愤怒と、何回も、何ヶ月も、何年もたたかっているうちにあなたはまったりと熟(う)れてきて、どこで打ってでるか、どこで撤退すべきかがおぼろげながら体得できる。“ツキ”というものにもしばしば际会し、のべつ逃げられているうちに、何となくその阳炎(かげろう)に似た性质が呑みこめてくる。おしゃべりだったあなたは、悲しいまなざしだけで生きる皱だらけの名傍役のように寡黙になる。おびただしいことは言叶にしようがないということを悟り、定义しようもないそれら风のようなもの、野獣のようなものは、もうとらえようなどと考えなくなる。あるがままにあらしめようという秋の水のような至境に达するのである。これを劔の道で申せば斩人斩马の宫本村の武蔵(たけぞう)から宫本武蔵と名が変わるまでの生であり涯である。そうであるはずのものである。それに逆らって武蔵(たけぞう)の身分である者が武蔵(むさし)の真似をしたらどうなるか。以下にあなたはその実谈としての悲しみよ、今日はを読まれる。あるがままにあらしめよに逆らいたくなって走るままに走ってみたらこうなっちまったのだ。(后略)
开高健着「钓鱼大全」
作家开高健は1974(昭和49)年に茅ヶ崎市东海岸南のこの地に移り住み、亡くなるまでここを拠点に活动を展开されました。その业绩や人となりにふれていただくことを目的に邸宅を开高健记念馆として开设。书斎は往时のままに、展示コーナーでは、期间をさだめてテーマを设定し、原稿や爱用の品々を展示しています。これらを通じて、たぐい稀なその足跡を多くの方々にたどっていただけるなら幸いです。(开高健记念馆パンフレットより)
 
?所在地 〒253-0054 茅ヶ崎市东海岸南6-6-64
TEL&FAX 0467-87-0567
?开馆日 毎週、金、土、日曜日の3日间と祝祭日 年末年始(12月29日~1月3日)は休馆させていただきます。また、展示替え等のため、临时に休馆することがあります。
?开馆时间 4~10月 午前10时~午后6时(入馆は午后5时半まで)
11~3月 午前10时~午后5时(入馆は午后4时半まで)
?入馆料 无料
?交通 JR茅ヶ崎駅南口より约2办尘
东海岸北5丁目バス停より约600尘
(辻堂駅南口行き  辻02系  辻13系)
记念馆に驻车场はありません
开高健(かいこう たけし)
1930年大阪市生まれ。大阪市立大学法学科卒业后、寿屋(现?サントリー)に宣伝部员として入社し、PR誌「洋酒天国」の创刊やすぐれた広告を制作する。57年「パニック」を「新日本文学」に発表し、注目を集める。58年「裸の王様」で第38回芥川赏受赏。64年に朝日新闻临时海外特派员としてベトナム戦争を取材する。代表作に「日本叁文オペラ」「辉ける闇」「夏の闇」「オーパ!」など。89年食道癌に肺炎を併発し、永眠(享年58歳)。
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