暗网解密

SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

荒俣宏の「超博物誌」第四回

北海道とサケと缶詰の深い関係

明清丸を中心に5色のテープをひきながら浓雾の中で勇跃出港

その昔、ニチロ(现マルハニチロホールディングス)がまだサケマス船団を出していたころのお话。四月、五月になると社员の耳と目が一斉に北海道の函馆に向いたものだった。渔师のみなさんはここから、まるで日露戦争の日本海海戦にでも出て行くような大船団を仕立てて出航するのだ。全社あげて、その準备と送り出しに汗をながした。一种のお祭りだったといっていいだろう。

ぼくが社员だった昭和40年代は、ほぼ叁ヶ月にわたるサケマス渔があり、その準备に刈りだされて函馆に出张したこともあった。それくらい、サケは伟大な存在だった。なにしろ、昔の最盛期は、サケ渔のおかげでボーナスが20ヶ月分でたとか、渔がおわったあとの半年は仕事をしなくてもよかったとか、信じられないような伝説も伝わっていた。

でも、この话はなにもニチロ(现マルハニチロホールディングス)にかぎったことではない。明治新政府ができた当初の日本もまた、产业?経済面でいろいろとサケのお世话になったからだ。アメリカの南北戦争で北军の义勇兵だったホーレス?ケプロンという人が、お雇い外国人として来日し、北海道开拓の指挥をとった。この老兵は、「少年よ大志を抱け」のクラーク先生ほど有名ではないけれど、北海道を一本立ちさせることに大きな贡献があったから、大通り公园に铜像がちゃんと建っている。

ケプロンは、できれば日本の経済を支える新产业を北海道で立ち上げたかったのだが、金鉱探しだの牧畜だのいろいろ候补があったなかで、サケ渔にいちばん魅力を感じた。北洋の渔场が开拓され、サケが大量に获れた。これを缶詰にして输出すれば、输出产业の切り札にできるはず、と北军の英雄は考えた。そこでケプロンは、缶詰製造技术で世界の権威といわれたトリートというアメリカ人技师を本国から呼びよせ、石狩地区で本格的な製造を始めた。しかも、これがまた明治10年10月10日という、じつに区切りのいい日だった。

本格的な缶詰の商业生产第一号は、なんと、サケ缶だったのである。しかも一缶のお値段は20銭から35銭、お米3升以上买える超高级品だったから、ほとんどが输出にまわされ、外货を稼ぐ切り札のひとつとなった。それに対し、国内で消费されるサケは、塩蔵品の「塩ジャケ」が主流だった。前回まで、日本国内に出回った新巻きシャケの话をしたわけだが、近代サケ产业のエースの座には、新巻きに代わって、外国に通用する新スターがあらわれたのだった。

开拓使顾问ケプロンとその他の御雇アメリカ人たち(明治4年)北海道大学附属図书馆所蔵
*写真は右よりエルドリッジ(ケプロンの秘书、医师)、ワルフィールド(土木)、アンチセル(鉱山)、ケプロン、J.クラーク  (札幌学校教师)

ニチロと日魯のあいだ

という次第で、サケ缶は输出品の主役として期待されたのだが、しかし明治20,30年代にはいると、事情がちょっと変わってきた。日本が日清、日露の戦争に突入し、保存が利いて力がでる军事用の食材がもとめられたからである。もともと、缶詰はナポレオンが戦争に持っていく食料の保存法をひろく募ったときに生まれた発明品だった。ここで保存食として注目されたのが、サケ缶をはじめとする缶詰だった。日本の兵队さんたちがはじめて缶詰を食べ、おいしさに感动した。今もそうだが、缶詰は文化というよりも文明の味がするから。缶詰が国内でも消费されるきっかけは、これを味わった兵队さんたちが除队したあと故郷で缶詰の便利さ、おいしさを、宣伝したことだ、とよくいわれる。こうして、国内にも缶詰ブームの予感がでてきた。

大正时代にはいると、さらにサケ缶のライバル「カニ缶」が登场して、国内の人たちも缶詰のおいしさに関心を向けるようになる。このカニ缶は洋上にある船の中で加工され缶詰になった。余谈になるが、蟹工船ではたくさんの人が働いた。けれども、过酷な労働だったようだ。小林多喜二の名作『蟹工船』は、そういう船内の労働环境を描いた小説だ。

さて、おいしい缶詰が出揃うのを见て、业界は国内にも缶詰を広めようという気になった。大正11年にはサケ缶などを国内でたっぷり食べてもらおうというキャンペーンをおこなう「缶詰普及协会」が设立される。これに歩调をあわせ、サケ缶を船内で生产する「サケ工船」が登场し、输出も国内贩売もともに急成长するようになった。船の中で生のサケを缶詰にするから、おいしいサケ缶ができる。またまた余谈だが、この船内製造によるクラシックで新鲜な味のサケ缶を、昔の纸ラベルと一绪に再现した復刻版缶詰が、今ニチロ(现マルハニチロホールディングス)で発売されている。これがまた、うまい!! よき昭和の味がする。

ちなみに、サケ缶の有名ブランドとなったニチロ(现マルハニチロホールディングス)は、明治30年代末に「堤商会」として创业した。国内向けの塩蔵品だけでなく、明治43年には早々と输出用のサケ缶を生产するため、トタン屋根の小さな工场を建设している。でも、设备はまだオモチャみたいだった。ブリキ板を手で丸め、ハンダづけして缶詰にしたそうだ。しかし、大正のはじめには新しい机械を用いて「卫生缶」をつくり、欧米で人気のある红サケの缶詰を大量生产する道をひらいた。このとき「あけぼの印」も诞生している。この赤い日の出のマークは、きっと、红サケの赤を连想させる役目を期待されたのだろう。もうひとつ、おまけのトリビアを书いておきたい。ニチロという社名は、旧社名の日鲁渔业から来ている。でも、なぜ日鲁と书いたかはあまり知られていない。北洋のサケマス渔场をともに重视した日本とロシアを并べて「ニチロ」なのだが、ロシアのロを「露」としないで「鲁」としたのには、わけがある。「露のようにはかない」と縁起が悪い。一方、「日鲁なら、ふたつの日が鱼をはさむので、毎日渔获があるという縁起の良い意味」になるから、採用されたという。

ナポレオンは兵士に栄养豊富で美味新鲜な食べ物を供给しなければならないことを痛感。フランス政府は12、000フランの悬赏をかけて陆军粮食となる食品保存技术法を募集し、アペールの案が採用されました。

「缶詰の原理」を発明したフランス人のニコラ?アペール。彼は、食料品に関する仕事と実験に一生をささげており、つけ物业、菓子製造业、料理店、醸造业に従事し、91歳にて生涯を闭じました。

復刻版缶詰
鮭ギャラリー「缶詰ラベル」へ

缶詰ラベルに描かれたサケの絵のちがい

地面に腹ばいの図案
飛び跳ねている図案
垂直滝のぼりの図案

※各サケをクリックすると「鮭ギャラリー」のページにリンクします。

さっき、サケ缶の復刻版のことと书いて思い出したのだが、昔の缶詰にはきれいな色刷りの纸ラベルが巻かれていて、これがデザイン面でもおもしろかった。现在、日本缶詰协会には明治から昭和10年代にわたる古い缶詰ラベルが収集保存されている。明治10年ごろに使われたサケ缶のラベルもある。今见ると、このラベルには不思议なポーズのサケが描かれていて、なんとも兴味深い。なんと、サケが陆上にいるのだ。お腹を地面につけて、うつぶせの形で立っている。こういう鱼の描き方は、水中に潜る习惯のなかった西洋ならではの方法だ。西洋では、钓り场や鱼场の风景と、陆に立って生きているサケとで、川や海から获ったばかり、という新鲜度を表现した。このラベルデザインを见ただけでも、输出用のサケ缶であったことがわかる。

しかし、日本には海人文化があって、水中の潜る人がたくさんいたから、水中シーンを絵に描けた。また、鲜度のほうは「鲤の滝のぼり」という活きのいい画题があって、跳ねあがっている鱼を描くのが定番だった。そこで、サケ缶が国内向けに贩売されるにつれ、ラベルの絵にも、滝のぼりする鲤とそっくりの、跳ね上がったサケが描かれるようになる。ニチロのサケ缶は、この日本向け「滝のぼり」タイプのサケがラベルで跳ねている。日本人にはよくアピールする図柄だ。でも、英语「サーモン」の语源となった「サルモ」というラテン语だって、「跳びあがる」という意味なんだけれどね。サケは跳ねあがってこそ、おいしそうに见えるのだ。


荒俣宏 作家

1947年东京生まれ。庆応大学法学部卒业后、日鲁渔业(现マルハニチロホールディングス)に入社。コンピューター?プログラマーとして约10年间のサラリーマン生活をおくる。その间、纪田顺一郎氏らと、雑誌「幻想と怪奇」を発行。英米の幻想文学などを翻訳しつつ、评论も展开。独立后は翻訳、小説、博物学、神秘学などジャンルを越えた执笔活动を続け、その着书、訳书は300册に及ぶ。代表作に350万部を越える大ベストセラーとなった『帝都物语』(全6巻 角川书店)、古今の生き物に対する博物学の集大成といえる大着『世界大博物図鑑』(全7巻 平凡社)などがある。日本大学芸术学部研究所教授。近着に『読み忘れ叁国志』小学馆、『想像力の地球旅行』角川文库、『イリュストレ大全』长崎出版など。

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