鮭と文化
高桥由一が油絵静物画の见本として取り上げた塩ジャケの絵が、じつは日本の油絵史にとってきわめて重要な作品だったことは、前回に详しくお话した。しかし、由一の絵はそれだけにとどまらず、日本の塩ジャケ史(外国にも塩ジャケ史があるのか???)にとっても兴味ぶかい记録であることを、「サケ缶のニチロ」としても声を大にして主张したい。
いちおう高桥由一作といわれている鮭図は、丹念に探すと十枚前后あるのではないかと思われるのだが、たぶんいろいろな画家が时期と场所を违えて描いたものだろう。その証拠に、塩引きにされたサケの乾燥具合、シワの寄りかた、身の切りかたなどに大きな违いがある。なかでも大きな问题は、吊り下げかたにあった。多くは头を上にし、縄を鳃に通してぶらさげているのに、その逆に尻尾を上にして、尾柄に縄を巻いてぶらさげてある絵があるのだ。ほんとうにこういうスタイルの塩ジャケが存在するのか?
调べてみると、ほんとうにあった!しかも、日本ではじめてサケが产卵にあがるための水路(种川)を考案しサケ资源の保全を実行した越后叁面川の村上だ。江戸时代、ここの村上藩は虾夷地の松前藩と并んで塩引きにしたさけを江戸の将军家に献上した。しかし、虾夷をはじめとしてほとんどの产地が头を上にして吊るす塩ジャケを生产したのに対し、村上では昔から尻尾を上にして吊るす。一説によると、头に縄を回して吊るすのは首吊りを连想させて縁起がわるいからだという。将军家に献上した関係で腹の割きかたも切腹を连想させないように工夫されているそうだ。高桥由一の絵では腹の割きかたまで描写されていないのでよくわからないが、闻けば一文字にばっさり切らないとのこと。
でも、どうもそれだけではないらしい。村上の塩ジャケの製法由来に関して、须藤和夫さんの着书『叁面川サケ物语』(朔风车刊)に次のようにある。
「あれ。よその塩引きは头が上なんだねーー塩引き作りが最盛期を迎えた十二月のある日の、村上市役所选管事务局の昼休み时间。若手职员が一枚の切手を手にびっくりしたような声をあげた。その邮便切手は、昭和五十五年二月発行の近代美术シリーズ第五集の五十円切手。絵は高桥由一画伯の手になる『鮭』だ。(中略)びっくりしたのは、吊り下げられている塩引きのそのサケが头が上になっている図柄だからだ。生まれてから、塩引きサケといえば头が下になっているのを见惯れた目には、それが异様に映ったのも当然だろう。(中略)イワシのような小鱼でも头付で干す时には头が上になるのが一般的手法なのに、村上のサケに限って逆になってしまう理由について、なぜそうなったかをつまびらかにしてくれるような伝承の资料や口伝は発见出来ない」
そこで须藤さんたちの「推理」が始まった。冗谈も交えて、村上で尻尾を上にする理由は、
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などが考えられるという。この製法は村上の秘伝だったようで、他に同じ造り方をするのは新潟県叁条市の五十嵐川周辺だけだという。ここは村上藩の所领であった。
というわけで、油絵の「鮭図」に村上タイプの逆さづりがあることは兴味ある事実だ。东京にもこれがはいってきていたのか、それとも新潟でえがかれたものなのか。絵を见ると、たしかに「カワマス」のからだには乾燥シワが寄っておらず、とても姿がよいのだ。こういうことが分かるのも、たくさんある「鮭図」ならではの楽しみだろう。


新潟県村上の逆さづりの鮭

切手:近代美术シリーズ第5集
「鮭(高桥由一)」(1980.2.22)
逓信総合博物馆所蔵
それにしても、村上の塩ジャケの话は意义深い。サケの胸鰭(いちびれ)を大切にしたのも、塩引きにした后の姿にこだわったのも、そこにサケ信仰の痕跡があらわれているからだ。たとえば、「いちびれ」は川をさかのぼるサケの生命力をあらわしたシンボルだし、海から山、山から海を行き来するその生态から、サケを歳神の使いとして信仰する风习が生まれている。新年に祀る门松を山から切り出して里に置き、新年の神を迎えた行事とも共通する、新しい命の运び手こそ、サケだったのだ。
北米の原住民もやはりサケを食料とした人たちで、サケが帰ってくる川にゴミを捨てたりして汚す者は死の罚が下ると信じられた。また、自分たちはサケの子孙だとも信じたので、トーテムポールにサケを彫刻した。北海道の人たちも自分をサケの末裔と考え、渔には厳しい制限を设けた。なにしろ北海道の人々にとっては、サケは皮すら衣料や履物になり、楽器の弦に使えた。とてもおもしろい话が、寛政の改革で有名な松平定信の书いた本におさめられている。ある内地人が、北海道の人にとって神であるサケの皮を履物にしているのを见て、「あなたたちは神様の皮を履いて歩いても平気なのか」とからかった。すると北海道の人は内地の草履を示しながら言い返した、「あなたがたも、神のようにあがめる稲の藁でつくった履物をはいているではないか」と。おたがい、履物にもなるほど有用な食料だからこそ、神とあがめずにいられなかったわけだ。

アメリカ先住民族罢蝉颈尘蝉丑颈补苍族の作品
Salmon by Terry Starr, Tsimsh an

むかしむかしばなし「さけの おおすけ」フレーベル馆
村上もふくめた东北地方では、年末にサケの王「オウスケ」が家族をひきつれて川をさかのぼる、という言い伝えがあった。サケの王は精霊なので捕まえると祟りがあるため、オウスケが来る日はわざわざ网を切ったりした。もし捕まえて食べれば、七代にわたってサケの祟りを受けると恐れられた。サケの王は川をわたるときに、「オウスケ コスケ いまのぼる」と声をたてるといわれる。このサケの声、実际に闻けたらちょっと怖い。
また、柳田国男の『远野物语』にも、远野最古の家柄をほこる家系では、自分たちをサケの子孙と信じ、予知能力があるサケの皮を口にしないという话や、神隠しにあった家にサケが跳ねてはいってきたので、消えた娘が変身して帰ってきたと考え、以后サケをけっして食べないことにした医者の话などが、载っている。
というわけで、サケはそれほど深く、地元に浸透した神の鱼だったことがお分かりいただけたと思う。なんだか、塩ジャケが急に神々しく见えてくるから、ふしぎなものだ。时もちょうど年末年始、今年は塩ジャケの絵と歴史に思いを驰せながら、新巻サケとお茶渍けの最高においしいごはんをハクハクとかっ込める幸せな新年を迎えよう。ちなみにアラマタは、ニチロの「特选 サケほぐし」をごはんの上にたっぷり盛り上げてお醤油をちょっとたらし、渋茶をぶっかけたその势いでハグハグ、ザックザックと平らげるのが大好きであります。(つづく)
荒俣宏 作家
1947年东京生まれ。庆応大学法学部卒业后、日鲁渔业(现マルハニチロホールディングス)に入社。コンピューター?プログラマーとして约10年间のサラリーマン生活をおくる。その间、纪田顺一郎氏らと、雑誌「幻想と怪奇」を発行。英米の幻想文学などを翻訳しつつ、评论も展开。独立后は翻訳、小説、博物学、神秘学などジャンルを越えた执笔活动を続け、その着书、訳书は300册に及ぶ。代表作に350万部を越える大ベストセラーとなった『帝都物语』(全6巻 角川书店)、古今の生き物に対する博物学の集大成といえる大着『世界大博物図鑑』(全7巻 平凡社)などがある。日本大学芸术学部研究所教授。近着に『読み忘れ叁国志』小学馆、『想像力の地球旅行』角川文库、『イリュストレ大全』长崎出版など。
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